「コインロッカーベイビーズ」

皆様、大変お待たせしました。待っていないと画面の向こうから聞こえてきますが、続けましょう。どうせ備忘録だから自分のための文章だ。

昔、苦手だった食べ物が不思議なことに突然食べられるようになった経験は誰にでもあるだろう。

僕は舞茸とかシメジとか一部のキノコがどうしても食べることができなかった。松茸に至ってはエリンギの方が美味しいと思っているバカ舌の持ち主だ。トリュフに至っては味すら想像できないのでテレビでフレンチレストランで大量のトリュフが乗った料理を見ても親子丼の上の海苔みたいだなと思うくらいだ。「トリュフの臭い」で調べてみたが想像が全くできなかった。恍惚に溢れる香りと書かれていたので危ないキノコなのだろう。男性の香りという意見もあるらしい。危険な雰囲気が一層強くなる。

とにかく今となっては理由は分からないが一部のキノコは臭いも食感も見た目も全て受け付けなかった。あれはカビの仲間で食べるものではないとかまで思っていた。今となっては独特の歯ざわりや臭いが恋しくなる時がある。

家庭や学校でどうしても食べないといけない時なんかは息を止めてなるべくベロに触れないように二、三回噛んで一気に飲み込む。こんな食べ方をしていたらどんどん嫌いになる。

考えてみると調理法も調理法が悪いと断言できる。家ではそのまま味噌汁に突っ込んでいた。こういうものは段階を踏む必要があると思う。濃い味付けでごまかして食感だけ味わうとか方法はある。まだ家での料理はいい。料理として成立していたからだ。問題はご飯を牛乳で流し込み、納豆にネギやカラシではなくチーズを入れるようなカルシウム原理主義に支配された学校給食だ。

学校給食は時折栄養の計算の帳尻合わせのためだけに試食したことないだろうと思うようなメニューが平気で出てくる。チーズと豆の酢の物とかは思い出しただけで背筋がゾッとする。その中でもシメジと青菜を炒めて青海苔を振りかけたような食べ物は人生の中でもワーストを争う一品だ。記憶が曖昧なので正確なことは覚えていないがはっきりとしていることは単体では悪い食材ではないが集まると臭い。

言い方は最悪だが本来一緒に調理されようがないものが混ざっているから吐瀉物のようだった。

学校給食ではそんな料理でも残すことができない。友達が校庭でドッチボールをする昼休みに皿とにらめっこをする羽目になる。

飲み物で流し込めばいいと思うかもしれないが、水筒を忘れた時に流し込む飲み物が牛乳しかない時があった。そうなると最悪がより最悪になる。牛乳の悪い部分だけが一緒に暴れ出す。栄養計算をして吐瀉物ならカロリーメイトの方が何倍も嬉しい。こっちの方が牛乳にだって合う。

学校給食に対する不平不満をぶちまけたところで本題に入ろう。タイトルは覚えているだろうか。「コインロッカーベイビーズ」だ。

僕は村上龍は「限りなく透明に近いブルー」しか読んだことがなかった。そんな僕が村上龍について語るのは恐れ多いが、その作品を読んだときは四ページを読んで昼寝をして、また四ページ読んで昼寝をするサイクルになってしまった。そんな経験があったが「コインロッカーベイビーズ」は面白いと言われて手に取った。

感想は面白かった。それに尽きる。不思議なことに文章の雰囲気とかは二つの作品は同じ作者だから当然だが似ていると思う。似ていたが、物語に引き込まれる感覚は全く違った。「限りなく透明に近いブルー」は読んでいると目が文章から離れてそのまま瞼が閉じていくが、「コインロッカーベイビーズ」は違った。二つの作品で何かが大きく違うのだろう。そんな時に好き嫌いのことを思い出したのだ。

あらすじは本の裏表紙のままなので書く必要はないだろう。金、暴力、セックスを綺麗に包み込む文章を辿っていけば最後まで読むことができる。何から何まで丁寧に文章だけで表現していることに一ページごとに感動した。

「コインロッカーベイビーズ」が僕を引き込んだのはダチュラの存在と二人の主人公がよかったからだ。

ダチュラというのは物語の中で一度体に入るとその生物が殺戮マシーンとなる恐ろしい薬品の名前だ。主人公の一人であるキクはその存在を知ると街に撒きたいと思うようになり、冒険をするようになる。

この物語で最後にダチュラが撒かれることがなければこの作品は面白くないと断言していただろう。最後に街に撒かれたダチュラの引き起こす狂気を文章から想像することはキクがダチュラの存在を知った時に夢想したこととリンクする。その時に自分の中のキク的な部分があるのだろうと認識させられる。そんな感じで空想のような小説なのに人物は生々しく自分の中の暗い部分を首根っこを掴んで見せつけてくるような物語だった。

ハシはキクとは対照的に弱々しい少年でその弱さに苦しむ羽目になる。弱々しい自分を補うように男性的なものを求めるあまりにホモセクシャルの時もあった。彼は強迫観念に常にかられていたのだろう。その強迫観念や彼の狂っていく場面では一緒に狂ってしまうような感覚もあった。

限りなく透明に近いブルー」では狂うという感覚の描写を理解することはできたが、狂うという感覚を自分の感覚にすることはできなくて、その乖離が眠気を誘っていたのだろう。

キクとハシの大きな違いは破壊衝動を外側に向けるか内側に向けるかだと勝手に考察する。キクは自殺するくらいなら大虐殺をするような人物でハシはそれとは正反対だ。破壊衝動が大きなテーマだと思う。物語の最後には二人とも自分の破壊衝動を満たすことを達成する。悲劇的な終わり方だと思うが衝動が成就したという点ではある意味ハッピーエンドなのではと思ってみたりもする。

その衝動を作り上げたのはコインロッカーに捨てられて奇妙な治療を受けて、里子として引き取られた幼少期の全てだろう。普通に考えてこんな風に育ってまっすぐ育つ方がどうかしている。

純文学というのは文章を味わうものなのでネタバレしてもいいというところが魅力的だなと感想を書きながら常々思う。

自分は文章を読む時には情景よりも感情の方が大事だと思って読んでしまう。どれだけ情景の描写が上手だとしてもピンボケした写真にも劣る。ただ、感情というものだけは言葉でしか伝えられない。こういうキャラクターとかセリフとかが完成した作品が好きだ。昔は理解できなかった純文学を手に取るようになったが、昔から趣味は変わっていないのだろう。一層ひどくなっている。ここはどうせお涙頂戴だとわかっていても涙腺が緩んでいる自分がいる。脳のブレーキが緩んでいる証拠だろう。

らきすたで視界がぼやけた話はやめておこうか。

今回はこれまで。