「敦煌」

どうも、僕は充実している。その証拠にブログも次々更新できている。今回は歴史小説井上靖の「敦煌」ということで備忘録を書いていこう。

純文学、ミステリ、SF、ホラーの次に歴史と雑食のように活字とにらめっこしています。昔はミステリしか読んでいなかったのですが、人の好みはたったの数年で変わるものですね。

井上靖は握手の強い修道士でピンとくる人がいれば間違いなく彼の作品を読んでいる。そう。ルロイ修道士だ。畑仕事で硬くなった手の描写の仔細さは今考えると文豪だと思うのだが、中学生の頃の自分はルロイ修道士のキャラクターにしか目がいっていなかった。

この本に出会ったのは実家が引っ越すということで父の遺品整理をしていた時に大量の本の中にあったものだ。小学生の時にワーカホリックだった父が他界したこともあり、僕は正直父がどんな人間か知らなかった。どんな本を読んでどんな音楽が好きだったかも知らない。唯一知っているのは嫌いな食べ物がレーズンくらいである。

押入れの中から出てきた大量の本の中で大部分を占めていたのは社会派の作品だった。

白い巨塔もそういえば好きだったような気がするし、今、生きていれば、きっと池井戸潤が好きになっただろうとか勝手に想像している。

それと一緒に出た大量の洋楽のCD。僕自身はそこまで洋楽を聴かない。それでも覚えている光景は休日の家族のドライブでカーステレオが洋楽を流しながら高速道路を軽快に走る光景だ。そんなわけで洋楽を聴くと郷愁が蘇ってくる。

父が生きていれば僕はハードロッカーになっていたかもしれない。

そればかりは分からない。

敦煌」は中国は宋の時代。公務員試験を居眠りで棒に振った主人公が西夏の文字を手にしてその地へ旅立つところから物語が始まる。最終的には大量の仏典を未来に託すために石窟の近くの穴に埋めるという物語だ。

歴史小説で読んだことあるのは関羽劉邦くらいの素人だったが簡単に読むことができた。現代調に書かれているので難しい単語はほとんどなかった。

役人志望だった主人公がある女から託された首飾りを必死に守ろうとしたり、その女が死んだことで仏教に入り込んでいく姿は人間臭さが出ていたことが良かった。歴史というのは英雄にスポットを当てることが多い。仮に主人公が一騎当千するような武将だったらきっと共感することはできなかっただろう。

その本に触れたおかげで少しだけだが父がどんな人物かわかったような気がする。

僕には一生叶うことのない夢がある。それは父と一緒に晩酌することだ。墓石の前で父の好きなワンカップ大関を開いたところで石とにらめっこするだけに過ぎない。こんな言い方はあれだと思うが、墓石には父の魂なんて微塵も感じないし、葬式のために必要なモニュメントでしかない。骨だけになった人間にはどれほどありがたい経も聴くことはできない。

それらは無意味だとは言っていない。

その無意味があるからこそ僕は朧げで今にも消えてしまいそうな記憶をたぐる機会が持つことが出来ている。その点だけは坊主に感謝している。

この本を誰かに熱烈に勧めようとは思わない。

押入れという石窟から父が遺した大量の本を大人になった僕が発見する。そんな奇跡があったことを誰かに語りたいだけだからだ。

 

 

「屍者の帝国」

皆様、ごきげんよう。寒さは続いていますが、元気でしょうか。

 

今回は伊藤計劃の「屍者の帝国」について書く。

簡単に作品の紹介から。この小説は伊藤計劃がプロットの段階で筆を折った作品を彼の友人である円城塔が引き継いで書き上げたという作品だ。

当初、伊藤計劃が物語の途中で筆を折ったと勘違いしていた私は伊藤計劃の部分と円城塔の部分の継ぎ目を探すように読んでいたのだがあとがきで円城塔が全て文字を起こしたことを知り、ささやかな努力は水泡に帰した。

この小説は架空の歴史を舞台に繰り広げられるSFだ。イギリスで医者をしているホームズの相棒になる前のワトソンを主人公に死者を自由に操ることができるようになった社会を描いている。ここまでではB級映画によくあるゾンビの設定と大差はないだろう。ゾンビというのチープさは一切感じない。伊藤計劃の人間の身体に関する考え方と円城塔の言語に関する考え方が混ざり合った重厚なSFである。

僕は実のところ円城塔の面白さを理解する境地には達せていない。「虐殺器官」、「ハーモニー」の時とは違って文章が重たく読みにくいと感じてしまった。固有名詞の多さや世界史を勉強していたにも関わらず歴史的背景をつかみとることができずに読み切るのがやっとだった。文字を辿るだけで内容を把握していないところも十分にある。

もう一度時間をかけて読んでみたいと思える作品に出会えただけでもいいとしよう。

 

「コインロッカーベイビーズ」

皆様、大変お待たせしました。待っていないと画面の向こうから聞こえてきますが、続けましょう。どうせ備忘録だから自分のための文章だ。

昔、苦手だった食べ物が不思議なことに突然食べられるようになった経験は誰にでもあるだろう。

僕は舞茸とかシメジとか一部のキノコがどうしても食べることができなかった。松茸に至ってはエリンギの方が美味しいと思っているバカ舌の持ち主だ。トリュフに至っては味すら想像できないのでテレビでフレンチレストランで大量のトリュフが乗った料理を見ても親子丼の上の海苔みたいだなと思うくらいだ。「トリュフの臭い」で調べてみたが想像が全くできなかった。恍惚に溢れる香りと書かれていたので危ないキノコなのだろう。男性の香りという意見もあるらしい。危険な雰囲気が一層強くなる。

とにかく今となっては理由は分からないが一部のキノコは臭いも食感も見た目も全て受け付けなかった。あれはカビの仲間で食べるものではないとかまで思っていた。今となっては独特の歯ざわりや臭いが恋しくなる時がある。

家庭や学校でどうしても食べないといけない時なんかは息を止めてなるべくベロに触れないように二、三回噛んで一気に飲み込む。こんな食べ方をしていたらどんどん嫌いになる。

考えてみると調理法も調理法が悪いと断言できる。家ではそのまま味噌汁に突っ込んでいた。こういうものは段階を踏む必要があると思う。濃い味付けでごまかして食感だけ味わうとか方法はある。まだ家での料理はいい。料理として成立していたからだ。問題はご飯を牛乳で流し込み、納豆にネギやカラシではなくチーズを入れるようなカルシウム原理主義に支配された学校給食だ。

学校給食は時折栄養の計算の帳尻合わせのためだけに試食したことないだろうと思うようなメニューが平気で出てくる。チーズと豆の酢の物とかは思い出しただけで背筋がゾッとする。その中でもシメジと青菜を炒めて青海苔を振りかけたような食べ物は人生の中でもワーストを争う一品だ。記憶が曖昧なので正確なことは覚えていないがはっきりとしていることは単体では悪い食材ではないが集まると臭い。

言い方は最悪だが本来一緒に調理されようがないものが混ざっているから吐瀉物のようだった。

学校給食ではそんな料理でも残すことができない。友達が校庭でドッチボールをする昼休みに皿とにらめっこをする羽目になる。

飲み物で流し込めばいいと思うかもしれないが、水筒を忘れた時に流し込む飲み物が牛乳しかない時があった。そうなると最悪がより最悪になる。牛乳の悪い部分だけが一緒に暴れ出す。栄養計算をして吐瀉物ならカロリーメイトの方が何倍も嬉しい。こっちの方が牛乳にだって合う。

学校給食に対する不平不満をぶちまけたところで本題に入ろう。タイトルは覚えているだろうか。「コインロッカーベイビーズ」だ。

僕は村上龍は「限りなく透明に近いブルー」しか読んだことがなかった。そんな僕が村上龍について語るのは恐れ多いが、その作品を読んだときは四ページを読んで昼寝をして、また四ページ読んで昼寝をするサイクルになってしまった。そんな経験があったが「コインロッカーベイビーズ」は面白いと言われて手に取った。

感想は面白かった。それに尽きる。不思議なことに文章の雰囲気とかは二つの作品は同じ作者だから当然だが似ていると思う。似ていたが、物語に引き込まれる感覚は全く違った。「限りなく透明に近いブルー」は読んでいると目が文章から離れてそのまま瞼が閉じていくが、「コインロッカーベイビーズ」は違った。二つの作品で何かが大きく違うのだろう。そんな時に好き嫌いのことを思い出したのだ。

あらすじは本の裏表紙のままなので書く必要はないだろう。金、暴力、セックスを綺麗に包み込む文章を辿っていけば最後まで読むことができる。何から何まで丁寧に文章だけで表現していることに一ページごとに感動した。

「コインロッカーベイビーズ」が僕を引き込んだのはダチュラの存在と二人の主人公がよかったからだ。

ダチュラというのは物語の中で一度体に入るとその生物が殺戮マシーンとなる恐ろしい薬品の名前だ。主人公の一人であるキクはその存在を知ると街に撒きたいと思うようになり、冒険をするようになる。

この物語で最後にダチュラが撒かれることがなければこの作品は面白くないと断言していただろう。最後に街に撒かれたダチュラの引き起こす狂気を文章から想像することはキクがダチュラの存在を知った時に夢想したこととリンクする。その時に自分の中のキク的な部分があるのだろうと認識させられる。そんな感じで空想のような小説なのに人物は生々しく自分の中の暗い部分を首根っこを掴んで見せつけてくるような物語だった。

ハシはキクとは対照的に弱々しい少年でその弱さに苦しむ羽目になる。弱々しい自分を補うように男性的なものを求めるあまりにホモセクシャルの時もあった。彼は強迫観念に常にかられていたのだろう。その強迫観念や彼の狂っていく場面では一緒に狂ってしまうような感覚もあった。

限りなく透明に近いブルー」では狂うという感覚の描写を理解することはできたが、狂うという感覚を自分の感覚にすることはできなくて、その乖離が眠気を誘っていたのだろう。

キクとハシの大きな違いは破壊衝動を外側に向けるか内側に向けるかだと勝手に考察する。キクは自殺するくらいなら大虐殺をするような人物でハシはそれとは正反対だ。破壊衝動が大きなテーマだと思う。物語の最後には二人とも自分の破壊衝動を満たすことを達成する。悲劇的な終わり方だと思うが衝動が成就したという点ではある意味ハッピーエンドなのではと思ってみたりもする。

その衝動を作り上げたのはコインロッカーに捨てられて奇妙な治療を受けて、里子として引き取られた幼少期の全てだろう。普通に考えてこんな風に育ってまっすぐ育つ方がどうかしている。

純文学というのは文章を味わうものなのでネタバレしてもいいというところが魅力的だなと感想を書きながら常々思う。

自分は文章を読む時には情景よりも感情の方が大事だと思って読んでしまう。どれだけ情景の描写が上手だとしてもピンボケした写真にも劣る。ただ、感情というものだけは言葉でしか伝えられない。こういうキャラクターとかセリフとかが完成した作品が好きだ。昔は理解できなかった純文学を手に取るようになったが、昔から趣味は変わっていないのだろう。一層ひどくなっている。ここはどうせお涙頂戴だとわかっていても涙腺が緩んでいる自分がいる。脳のブレーキが緩んでいる証拠だろう。

らきすたで視界がぼやけた話はやめておこうか。

今回はこれまで。

「潮騒」

 今回は三島由紀夫潮騒について紹介をしよう。

前回のブログの読者は本当にちゃんと書評を述べることなく変な気取った自分語りをするのだろうと思っているのかもしれない。ちゃんとした書評が読みたければこのページからブラウザバックをすることを推奨する。

三島由紀夫の作品を読んだのは21歳にして初めてである。こんなので読書家を自称しているからtwitterのプロフィールに〜/読書/〜と書いている人間がエセ読書家に思えてくるのだろう。

僕と三島由紀夫の出会いは「不道徳教育講座」という随筆集を手に取ったことから始まる。それまで彼のことは東京大学法学部の切腹した頭の狂った文豪くらいにしか思っていなかった。その時は、三島由紀夫がどうこうというよりも不道徳な教育ってどんなものかなと面白半分で手に取った。

内容は自分の手に取って確認してほしいが、一般的な道徳とは逆説的なことを三島由紀夫は読者に説いている。ちなみに三島由紀夫ペンネームで本名は平岡公威という名前らしい。乾くるみが男だという豆知識と一緒に披露すると少しはエセ読書家のお名は返上できるかもしれない。

少し話が逸れたが少しタイトルを見ていこう。

「「殺っちゃえ」と叫ぶべし」

「女には暴力を用いるべし」

「弱い者をいじめるべし」

このような最低なタイトルが軒を連ねている。本当に人格を疑うようなタイトルだ。こんなことを書く人間が潮騒のような若者の恋愛を描いた物語を書いたとは思えない。ただ、恋愛だの純愛だのを歌っていた何処かのバンドマンが二股をかけて交際相手の水着を掛けていたとかあるからこんなことで驚いてはいけない。

正直、そのバンドマンがそんな行為に及んでも驚かない。そのバンドの「わたがし」という曲で僕はわたがしになりたいと言っている。これなんて格好のいいバンドマンが言うからロマンチックであって、あの女の子が食べているわたがしになりたいと言えば火炎瓶が投げつけられてもおかしくないくらい気持ちが悪い。それくらいの倒錯した性的嗜好、いわゆるフェチズムを持っていなければラブソングなんてかけないのかもしれない。

二回目で炎上しても嫌なのでこの話はここまでに留めておこう。少なくとも僕はそのバンドマンのことは嫌いではないことは心に留めておいてほしい。

再び、三島由紀夫の話に戻ろう。「不道徳教育講座」での彼の印象は毒のある知識人といった印象だった。それをいい意味で覆してくれたのが今回の「潮騒」だった。

この小説の中が男女の甘酸っぱい青春の彼の印象は純文学の人間で小難しい印象があったが、とか漁村を中心に繰り広げられるボーイミーツガールで素敵だったなんて感想はもちろんある。ただ、青春ものが読みたければ本屋に平積みされている本を手に取ればいい。漫画のようにデフォルメされたキャラクターが表紙の本は大体そのような内容だ。

それでもこの本は読み継がれている。名作として読み継がれている。その理由を考えていこうと思う。

風景を感じることができる。この点は非常に大きいだろう。文字列をたどっていくだけで漁村の塩臭い空気が鼻の奥に感じる。それほどまでに漁村の光景を丁寧に描いている。五感を十分に使った描写は上手だなと感心してしまう。

風景だけでも見事だが、心情描写も抜群だ。二人の恋心を上手に描いている。二人の初めてのキスの時には読んでいるこっちが恥ずかしくなって一人でもんどり打ってしまった。こんな人間が「女には暴力を用いるべし」と言っている。もう何もかもが信じられない。

その中で描写に関して素晴らしいと思ったは女性の胸、すなわちおっぱいの描写である。

ただ、おっぱいが出てきたからといって興奮するなという声も聞こえてくる。そんな声にはどうしておっぱいで興奮しちゃいけないんだと反論したい。少々、取り乱してしまった。一部を抜粋してみよう。

「決して色白とは言えない肌は、潮にたえず洗われて滑らかに引き締まり、お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背けあった一双の硬い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾を持ち上げていた」

この文章から分かることはいくつかあるだろう。その中でも三島由紀夫がこの場面を力を入れていたということが伝わってくる。そう考えると三島由紀夫も一人もどうしようもない男なのかもしれない。

この胸の表現があるのはは主人公の青年が恋する女性の裸を事故で見てしまう場面だ。現代的な言葉ではラッキースケベともいう。三島由紀夫ラッキースケベを描いたと思うとさらに親近感が湧いてくるだろう。

ただ、自分がこの場面をいつもの文章で書くとどうなるか想像してほしい。きっと若い男女の青春の場面ではなくただの低俗なラッキースケベになってしまうだろう。ここが三島由紀夫の凄いところだ。本当に綺麗な言葉というのはただの磯臭い海の街であっても肉欲的な人間の持つどうしようもない動物的な部分でさえも美しくしてしまうのだろう。

だから、このシーンには低俗さはない。逆に清々しさに溢れている。恋愛に関して疎い二人を表現するのにこれ以上はないシーンであり、この物語に欠くことができないと断言することもできる。それはこの作品が大衆小説としての娯楽の面は当然あるとして純文学の芸術的な側面も持ち合わせているからだろう。

それなら純文学とは何かと問われれば明確な定義はないと思うが、自分が読んでいて芸術的だと思った文学の総称であると自分は勝手に思っている。

自分が思えばどんな本だって純文学ということだ。

芸術なんて難しい話になってくると理系学生の僕に手に負えなくなってくる。次に問題になるのが芸術を論ずるに当たって教養主義権威主義の板ばさみになるのだがこれは別の機会にしよう。

「砂漠」

初めまして

最初のブログは伊坂幸太郎の砂漠について書こうと思う。

 

この物語は中学生だった僕を最終的に京都に導くことになったものだからだ。本の紹介と一緒に誰も求めていない近況報告をしようと思う。それでも良いと思う。これは僕の備忘録だからだ。

 

砂漠は五人の大学生についての物語だ。それぞれの五人の個性すらも頭から抜け落ちている。昔に読んで本自体も実家にあるのかどうかと行方不明の状態だから覚えている情報は本の紹介をするつもりなのか自分でも怪しい。印象的だったのは五人の大学生が一つの部屋で雑談や麻雀をしながら夜を過ごすところだ。中学生の時の僕はこんな大学生活に憧れていた。

 

別に中学時代の僕には友達が全くいなかったわけではないと思う。それは僕の妄想で誰も僕のことを友達だと思っていないとしてもそれほど驚かないかもしれない。その時は勉強と部活の二つが僕を縛っていたような気がする。常にその緊張感で周りを気にすることが出来ていなかったと思う。

 

そんな僕は高校に入っても変化はなかった。部活は県大会に行くことができればラッキーくらいの気持ちで軽い気持ちで臨めるようになったが、その代わりに勉強がより強く僕を縛ることになった。

今、考えてみればどうしてあんなに夢中になって英語の文法や数学の公式なんて面白くもないものを四六時中覚えようとしたのだろうか。大学では英語や数学の勉強の意欲が驚くほどの低空飛行になってしまった。いや、意欲はもう既に墜落している僕にとって理解ができない。大学の一回生の時に使っていた数学の教科書はゴミ箱に捨てた。

 

その時の自分は勉強ができることに自分の価値を見出して、勉強ができなくなれば自分の価値がなくなると思っていたのだろうか。過去の自分に伝えることができれば僕は勉強方面での価値はないと伝えてあげたい。自分よりも頭がいい人なんて山のようにいる。そんな人たちにに難しいことは任せておけばいいと。

 

 

僕は中学生の時と同じような高校生活を過ごすことになったが、その灰色の青春のおかげで紆余曲折もあって僕は京都で大学生をすることができた。その紆余曲折を支えてくれたのは「砂漠」だと思う。実家を出て誰かの下宿で夜を過ごす自由な生活をしてみたかったからだ。僕の故郷は別の機会にしよう。

 

「砂漠」みたいな学生生活をするにあたって京都という選択は正解だった。大学周辺に下宿が集中しているから終電なんて気にすることなく友達の家で夜中に缶ビールと一緒にバックトゥザフューチャーをを見て、「やっぱり、スピルバーグは最高だ」と夜中の三時にどうしようもないくらい浅い感想を騒ぎながら下宿に帰って布団に潜って昼まで寝るなんてこともできる。近隣住民には大変な迷惑をかけてしまった。

 

そんな自堕落な生活を共に過ごした友達が僕には三人いる。僕を含めれば四人だが四人集まればできる定番のゲームである麻雀は一回もしたことがない。そもそも四人のうち一人でも麻雀のルールを把握しているかもわからない。

 

その三人とは軽音楽のサークルで出会った。どうやって仲良くなったかは忘れてしまっていたが、気がつくとLINEの四人組ができていて、誰かの家で集まって映画を見たり、音楽を聴いたり、本の話や馬鹿な話をしていた。そしていつの間にか憧れていた風景が目の前にあった。

 

最終的に目標が達成できていたわけだが、冷静に考えてみればそもそも大学生は誰かの下宿に上がり込んで酒を飲む生き物なのかもしれない。京都に来なかったとしてもこの景色は達成できていたのだろう。ただ、この四人で集まることはなかったのだと思う。

 

高校の時に僕を縛っていた教科書を僕は大学生になって閉じることができた。学問の放棄と呼んで差し支えは全くない。昼頃に目を覚まして、ヘッドホンをかけて適当に音楽を流して古本屋で買った本を開きながら過ごしていると太陽が沈むような生活を日々送っている。勤勉だけが取り柄だった僕はその取り柄を失ったけど悪い気分はしない。

 

 

 

ごめんなさい、本の紹介はできませんでした。