「潮騒」

 今回は三島由紀夫潮騒について紹介をしよう。

前回のブログの読者は本当にちゃんと書評を述べることなく変な気取った自分語りをするのだろうと思っているのかもしれない。ちゃんとした書評が読みたければこのページからブラウザバックをすることを推奨する。

三島由紀夫の作品を読んだのは21歳にして初めてである。こんなので読書家を自称しているからtwitterのプロフィールに〜/読書/〜と書いている人間がエセ読書家に思えてくるのだろう。

僕と三島由紀夫の出会いは「不道徳教育講座」という随筆集を手に取ったことから始まる。それまで彼のことは東京大学法学部の切腹した頭の狂った文豪くらいにしか思っていなかった。その時は、三島由紀夫がどうこうというよりも不道徳な教育ってどんなものかなと面白半分で手に取った。

内容は自分の手に取って確認してほしいが、一般的な道徳とは逆説的なことを三島由紀夫は読者に説いている。ちなみに三島由紀夫ペンネームで本名は平岡公威という名前らしい。乾くるみが男だという豆知識と一緒に披露すると少しはエセ読書家のお名は返上できるかもしれない。

少し話が逸れたが少しタイトルを見ていこう。

「「殺っちゃえ」と叫ぶべし」

「女には暴力を用いるべし」

「弱い者をいじめるべし」

このような最低なタイトルが軒を連ねている。本当に人格を疑うようなタイトルだ。こんなことを書く人間が潮騒のような若者の恋愛を描いた物語を書いたとは思えない。ただ、恋愛だの純愛だのを歌っていた何処かのバンドマンが二股をかけて交際相手の水着を掛けていたとかあるからこんなことで驚いてはいけない。

正直、そのバンドマンがそんな行為に及んでも驚かない。そのバンドの「わたがし」という曲で僕はわたがしになりたいと言っている。これなんて格好のいいバンドマンが言うからロマンチックであって、あの女の子が食べているわたがしになりたいと言えば火炎瓶が投げつけられてもおかしくないくらい気持ちが悪い。それくらいの倒錯した性的嗜好、いわゆるフェチズムを持っていなければラブソングなんてかけないのかもしれない。

二回目で炎上しても嫌なのでこの話はここまでに留めておこう。少なくとも僕はそのバンドマンのことは嫌いではないことは心に留めておいてほしい。

再び、三島由紀夫の話に戻ろう。「不道徳教育講座」での彼の印象は毒のある知識人といった印象だった。それをいい意味で覆してくれたのが今回の「潮騒」だった。

この小説の中が男女の甘酸っぱい青春の彼の印象は純文学の人間で小難しい印象があったが、とか漁村を中心に繰り広げられるボーイミーツガールで素敵だったなんて感想はもちろんある。ただ、青春ものが読みたければ本屋に平積みされている本を手に取ればいい。漫画のようにデフォルメされたキャラクターが表紙の本は大体そのような内容だ。

それでもこの本は読み継がれている。名作として読み継がれている。その理由を考えていこうと思う。

風景を感じることができる。この点は非常に大きいだろう。文字列をたどっていくだけで漁村の塩臭い空気が鼻の奥に感じる。それほどまでに漁村の光景を丁寧に描いている。五感を十分に使った描写は上手だなと感心してしまう。

風景だけでも見事だが、心情描写も抜群だ。二人の恋心を上手に描いている。二人の初めてのキスの時には読んでいるこっちが恥ずかしくなって一人でもんどり打ってしまった。こんな人間が「女には暴力を用いるべし」と言っている。もう何もかもが信じられない。

その中で描写に関して素晴らしいと思ったは女性の胸、すなわちおっぱいの描写である。

ただ、おっぱいが出てきたからといって興奮するなという声も聞こえてくる。そんな声にはどうしておっぱいで興奮しちゃいけないんだと反論したい。少々、取り乱してしまった。一部を抜粋してみよう。

「決して色白とは言えない肌は、潮にたえず洗われて滑らかに引き締まり、お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背けあった一双の硬い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾を持ち上げていた」

この文章から分かることはいくつかあるだろう。その中でも三島由紀夫がこの場面を力を入れていたということが伝わってくる。そう考えると三島由紀夫も一人もどうしようもない男なのかもしれない。

この胸の表現があるのはは主人公の青年が恋する女性の裸を事故で見てしまう場面だ。現代的な言葉ではラッキースケベともいう。三島由紀夫ラッキースケベを描いたと思うとさらに親近感が湧いてくるだろう。

ただ、自分がこの場面をいつもの文章で書くとどうなるか想像してほしい。きっと若い男女の青春の場面ではなくただの低俗なラッキースケベになってしまうだろう。ここが三島由紀夫の凄いところだ。本当に綺麗な言葉というのはただの磯臭い海の街であっても肉欲的な人間の持つどうしようもない動物的な部分でさえも美しくしてしまうのだろう。

だから、このシーンには低俗さはない。逆に清々しさに溢れている。恋愛に関して疎い二人を表現するのにこれ以上はないシーンであり、この物語に欠くことができないと断言することもできる。それはこの作品が大衆小説としての娯楽の面は当然あるとして純文学の芸術的な側面も持ち合わせているからだろう。

それなら純文学とは何かと問われれば明確な定義はないと思うが、自分が読んでいて芸術的だと思った文学の総称であると自分は勝手に思っている。

自分が思えばどんな本だって純文学ということだ。

芸術なんて難しい話になってくると理系学生の僕に手に負えなくなってくる。次に問題になるのが芸術を論ずるに当たって教養主義権威主義の板ばさみになるのだがこれは別の機会にしよう。